確かなものは闇の中

チョイ読みサンプル





(ちょっと早かったかな)
 腕時計を見て、ロックは思案した。
 約束の時間まであと十五分ほどあったが、どこかで暇を潰すほどでもない。
(いいや、中で待たせてもらおう)
 そう判断した自分の甘さを、後で後悔するとも知らずに。

 先日の爆破事件から無事再建された三合会本部ビルの裏に回ってベルを鳴らす。
「ウェン?」
「あの、三時に約束を…」
 中国語で誰何する声に来意を告げようとしたロックは、全部言う前に勢い良く開いたドアを呆然と見つめた。
「良く来たな、待ってたぜ」
 レヴィ曰くの『くそったれホワイトカラー』ことサラリーマンスタイルはこの街の風土には正直合わないのだが、ビジネスの場にはくだけた格好は申し訳ないと今でも制服代わりに着ている。だが、ロアナプラの住人らしからぬ風体と実年齢に見られたことのない童顔を怪しまれていつもここに来るときはドアを開けてもらうだけでも苦労するのに、いまだかつてないほどフレンドリーな応対で、若い男がロックを中へと案内する。
「今アニキをよんでくるから、これやりながら待っててくれ」
 応接セットのテーブルに置かれた煙草入れを指して、案内役の男は出ていった。
(あれ?)
 部屋のどこかで香でも焚いているのか、ふんわりと甘い匂いがする。勧められた煙草も同じような香りのする変わった味で。
(この匂い、どこかで…)
 思い出そうとしても頭が全く動かない。起きてなくてはと思うのに、泥のような眠気がそれを邪魔する。
 贅沢な調度に傷をつけてはいけないと吸いかけの煙草をやっとのことで灰皿に落とすと、ロックはソファに倒れこんだ。

「遅いな」
 執務室で時計を見て、張が呟いた。
 時刻は約束の時間の五分前だった。日本人は時間に正確な民族であると言うが、そんな日本人であるロックが連絡なしで遅れたことは今までない。
「ちょっと見てきましょうか」
 張の右腕と言っても過言ではない三合会のナンバー2の周が通用口に向かおうとしたとき、執務室の扉がためらいがちにノックされた。
「入れ」
 張の許しを得て周が入室の許可を出すと、そこに立っていたのは現場を任せている古株の楊だった。
「大哥にご報告を。新米がとんでもない事をやらかしまして」
「何だ?」
 大抵のことは処理できる力量と権限を持った男が途方に暮れたような顔で切り出したことを不思議に思いながら、張が話の続きを促す。
「あの馬鹿が…大哥の客人を燻製用の商品と間違えて燻蒸室に通しちまいまして」
「何だって!」
 これには流石の張も驚いた。
『燻製』とは三合会の隠語で娼伎のことを指す。商っている阿片を使った香で燻したあと、薬なしではいられない体にしてみっちりと閨事を仕込んだあと好事家や娼館に売るためだ。
「仲買人から連絡もないのに商品が入るわけがねえと燻蒸室を覗いたら、大哥の客人がおねんねしてた次第で」
「…まさかとは思うが、注射はしてないだろうな」
「当たり前です。あの坊主にそんなことしたらどうなるかぐらい、心得てまさあ」
 ぶるぶると楊が首を振った。
 ラグーン商会の新入りが今のロアナプラでちょっとした有名人なのは、ある程度目端の利く人間ならば誰でも知っている。ホテル・モスクワ、三合会、暴力教会とこの無法地帯で幅を利かせる各種団体のいずれとも面識がある上にそれぞれのトップの覚えがめでたい元・一般人。
「で、今ロックはどこに?」
「人払いした燻蒸室に寝かせてますが、こちらにお連れしやすか?」
「頼む。慎重にやってくれ」
「承知しやした」
 ぺこりと一礼すると楊は出て行った。
「煙だけなら一晩もあれば抜けますね」
「ダッチの奴にどやされるな」
 ロックの上役の顔を思い出して、張は小さくため息をついた。